毛利経営コンサルタント事務所
【名古屋オフィス】
愛知県春日井市若草通2-31-1
TEL 0568-34-7080
【北海道オフィス】
小樽市稲穂2丁目19番12号
TEL 0134-32-1288
私は学生時代から18年間弁護士事務所に勤務して法律を学びながら、銀行や企業から懇請されて、例えば年商8億、負債93億の会社。年商5億、負債62億の会社。年商7億、負債が7億の会社など倒産状態の企業の代表取締役などを懇請されて経営を行ってきましたが、1つの企業も倒産させたことはありません。これだけ厳しい会社ですらです。
しかも40歳まで勤務した弁護士事務所では、5000件以上もの自己破産の手続きを代行してきましたので、経営の厳しさを痛感しながらどうしてこんなに失敗するのだろうと不思議に思ってきました。
すると、失敗する人は必ず失敗する共通したマインドを持っていて、倒産するまで誰にも相談しない。相談することが恥と思いそのまま倒産するかアドバイスを素直に聞き入れない人が失敗することが理解できました。
これは私だけの意見ではありません。世界でも著名な経営者も経営コンサルタントも同様のことを申していました。
相談するだけのことで、何をそんなにプライドを高くする必要があるのでしょうか?
私は、事業で失敗して自殺した人、家庭が崩壊して行方不明になった人、一家が離縁して行方をくらました人をたくさん見てきました。
1958年5月、北海道夕張郡栗山町生まれ。
少し、長いですがこれを読んでいただくだけで、「ビジネスヒント満載」できっと経営に活かせると思います。
経営で一番大切なのは、「マインド」です。
他人よりも勉強ができる。頭が良い。本をたくさん読んでいる。そんなことではありません。あなたの周りに何故この人が成功しているのだろう?と不思議に思った人はいませんか?
これを読まれて、「成功する人のマインド」を理解されれば、今後経営に大きな影響を及ぼすこととなることを確信しております。
次に「逆境にめげない死人になる覚悟」を構築することができれば、売上を2倍以上に伸ばすヒントになり、どんなに負債を抱えていても企業再建が可能になると信じて、目標を達成するまでブレずに成功への行動が取れるようになります。
先ずは、「分析」「構築」「行動」というプロセスをきちんと踏んで、最後に「結果」が導かれるのです。
ここに書かれていることを熟読してみて下さい。
あなたはこれを読まれることにより、きっと勇気が湧いて、きとんとした行動が取れるようになるでしょう。
プロフィールなので、少し生い立ちから入りたいと思います。
私は、札幌市から車で約50分の位置にある夕張郡栗山町という小さな田舎町で生まれ育ちました。
幼い頃はガキ大将で、小・中学生と卓球部のキャプテンをしておりましたが、高校時代に体育の授業でバスケットに魅了されて、高校に入学するとすぐにバスケット部に入部しました。
ところが、父が警察署に勤務していた関係もあり、柔道部の監督から毎晩2週間も自宅まで通われ、「1人だけ強くても団体競技なのだから大成しない」 「俺に体を預けたら好きな大学に行かせてやる」と勧誘をされて全く畑違いの柔道部に転部しました。
この柔道を始めたことが、自分の人生最大の岐路になったように思います。
その後、すぐに初段を取り、2年生の時には、地区大会の団体戦で2位になり全道大会まで行きました。その後2段に昇段し、中量級新人戦で優勝をしましたが、3年生の時には、怪我をしてしまい全道大会参加を断念しました。
いよいよ大学受験になりましたが、監督から「俺の母校へ進学しないと顔が立たない」と強制的に行かされたのが愛知学院大学柔道部でした。
全国からインターハイで成績を残した選手を合宿所に呼び寄せ、ここで生き残った者だけがレギュラーを勝ち取るというタイガーマスクのトラの穴状態でした。電話なし、風呂なし、雨が降るとあちこちで雨漏りだらけ、部屋には100ワットの裸電球のみ、1年生が朝晩の食事を作ることは勿論、朝6:30からトレーニングが始まり、夕方稽古、門限点呼後にはウェートトレーニングの3部練習でした。先輩の機嫌が悪いと殴る蹴るの連続で、いつも口から血を流していました。
ちなみに、この選ばれた1年生でも半分は夜逃げするという過酷な世界でした。
私は、上級生に対し、「いつかはやり返してやる」と臥薪嘗胆と唱えながら必死に稽古に励んでおりました。そんな過酷な経験があったからこそ、今の自分があるんだと思います。
その後、2年生に進学し、ジュニア(新人戦)で、愛知県予選で78キロ級で2位になりました。
しかし、3年生の時に転機がきました。1年生をアルバイト先まで運転手として奴隷扱いをしているほとんど練習に来ない4年生がいて、そのことを注意すると、それが生意気だということになり、3年と4年とが分裂して、ほとんどの私を含めた3年生は、柔道部を去ることになったのです。
この時に生涯で、初めて挫折を味わうことになりました。
今まで、単に強くなりたいという思いだけで柔道をやっていたので、就職や職業についても漠然と警察官もしくは刑務官ぐらいなるのかなぁ〜ぐらいにしか考えもしませんでした。
それからというものの自分の将来が急に不安になりました。
強くなりたいとしか思わなかった自分の将来に畏怖し、このままでいいだろうか?これからどうするんだ!と自問自答しました。 ほとんど勉強もしないで柔道バカで生きてきた自分の将来に恐怖したのです。
柔道で強くなって、ふるさとに錦を飾りたいという強い思いが、このままでは北海道に帰ることすらできないという挫折感が、恐怖心に変化したのです。
一人っ子なので、両親の面倒を見るために帰らなければならないという反面何を職業にすればいいのかです。
その結果、法律を勉強して、自分がやりたい何かを見つけて、ふるさとで起業するこという目的にたどり着きました。
このような想いを高校の柔道部の監督が大学生時代に監督だった教授に話をすると、その教授の勧めもあり、教授の兄の弁護士事務所でアルバイトすることになったのです。
この弁護士事務所で働いたことが、人生最大の収穫になるとは夢にも思いませんでした。
しかし、テレビで見ていた法律事務所と実際の事務所との大きなギャップを感じました。そこにはテレビで見る派手さはなく、ギトギトした「生きる」、いや「生き残る」というサバイバル合戦のお手伝いのような過酷な世界に足を突っ込んだ心境でした。
よく考えたら法律事務所にいいことで来る人は少ないですよね。
この18年間勤務していた弁護士事務所生活時代にいろんな訴訟問題と10,000件以上もの不動産競売、5,000件以上もの自己破産の申立業務をするうちに失敗する経営を知ることができたのです。
三省堂『新明解国語辞典』で「実社会」と引くと「虚偽と欺瞞が満ち溢れ毎日が試練の連続である厳しい社会」とあるように、「成功者」と「敗北者」、「裕福」と「貧困」、「優越感」と「劣等感」、「幸福」と「不幸」という意識は、全て自分で決め付けただけの心の持ち方だけであり、「自分は痛くて、我慢できない」と思っていても他人は、「痛くない」と思う人もいます。
よって、「可能」か「不可能」かの判断は、「できる」けど「やりたくない」とか「やらない」ことと同じだと理解できたのです。
何事も否定から入る人は、お金があるないではなく「心が貧乏」だということも理解できたのです。
30歳を過ぎる頃になると、家に帰るのはほぼ午前様でした。
兎に角、解決をすることが自分の使命だという意識になり、土日祝日関係なくお客に合わせた仕事に徹してきました。
34歳ぐらいになると更に多忙を極めほとんど休みが取れない状態になりました。 いろんな企業の役員を頼まれ、また再建するために代表取締役になったりもしました。
おかげさまで、年収もどんどん上がり35歳頃には新築マンションが現金で2棟買えるぐらいになったのです。
こうして、損得関係なく「人を助けて感謝してもらう」ことが生き甲斐になっていったのです。
「有難う」と感謝されて、「対価」を戴く仕事ができる喜びです。
ですからこちらから「いくら下さい」という請求書を書いたことがありませんでした。
請求しても、お客から「もっと請求して下さいよ」と言われるようになりました。
そうした意識が、次から次と、お客がお客を紹介してくれるようになったのです。
この時におぼろげながら「経営コンサルタント」という職業を意識し始めたのです。
何故なら弁護士事務所では、手遅れになってから相談に来る人がほとんどで、それでは、本当の意味で人を救うことができないと思ったからです。
このように人口1万人程度の田舎町に住んでいた自分が経験もしたことがない世界へどんどん入り込んでいったのです。
そうこうしている時に、取引先の銀行の支店長から名古屋市の有名なプリンセスガーデンホテルの相談を受けました。
93億モノ巨額な負債を抱えており、しかも年商が8億円で、更に別件で49億円もの債務で訴訟を提起されていて今後の対応策の相談でした。
ところが、相談に乗るうちにいろんな問題を抱えていて、その相談を真摯に受けているとどんどん引きずり込まれることになり、遂にこのホテルの経営を依頼されたのです。
調べてみると、とても給与を取れる状態ではありません。
銀行に0.5%の金利を支払うだけで、いっぱいいっぱいの状況でした。
普通の人なら「あ、無理!」と即答し、「どうやったら再建できるか?」なんて考えることもしないと思います。
普通の人なら「できない理由」を並べるだけです。
再建のプロでもこんな仕事を無給で引き受けたりはしないと思います。
引き受けるにもリスクが大きすぎるし、メリットがないと思うからです。
町づくりでもバカ者、若者、よそ者しかできないという言葉もあるようにこんな大変な企業をしかも無給で引き受けるのは「バカ」しかおりません。
この頃には、再建業務の高度なスキルがついていたので、期限と落としどころを決めて、会社経営をどうやったら売上を伸ばすことができるか?
又はどうすれば解決するかが見えるようになったのです。
私は、この時に「再建は無理だ!」とか「もうダメだ!」とやりもしないのに諦めるという意識は、思考を停止させてしまい、それ以上のアイディアや知恵が生まれなくなることに気が付きました。
「93億の負債を抱えているから、それは不可能だ!と思考を停止して、諦めてしまうのか?」
それとも「何とかできる可能性があると深く考えて知恵を絞るのか?」
私は、経営とは人間の能力には大差がないと考えています。
何が違うかといえば、
ダメになる可能性をいっぱい持っているのに漫然と何も考えずに平気ですること
ダメだと思ってそこで立ち止って、動かないこと
ダメだと思ったらすぐに諦めること
そんな意識を抱える経営者は、何度も同じ過ちを繰り返してしまいます。
それとは逆に、
常に「できるにはどうしたら良いのか」考える人
自分で知恵がなければ信用がおける専門家に早めに相談することが出来る人が、成功していると断言できます。
私は、後者の人間でしたが、ほとんどの人は前者です。企業再建ではこうしたマインドの違いが再建できるのか?倒産するのか正確な判断ができるかの違いだと理解できたのです。
こうしたマインドを構築したことが、私の武器になったことが多くの企業を再建に導く礎になったと思います。
はっきり申します。
新規に売上を伸ばす手段や知恵がない、
業況を改善するための行動をしない、
誰にも相談しない、
それでいて、いつかは天からチャンスが巡ってくるだろうと考えている人は、倒産予備軍です。
『経営の究極の病はあいまいな期待を持つことです』
私は、この年商8億、負債93億のホテルを背負い、損益分岐点の12億まで売上を伸ばして、82.5億債権カットさせて蘇らせたのです。
このことは、著書『トップの後ろ姿で会社は変わる』に詳細を書きました。
再建後、私は別会社を設立して経営していた外食事業部の社員の雇用を守るために定期借地で土地を借りて、その上に大型焼肉店を建築してオープンしました。
ところが、半年後に狂牛病の風評により、徐々にお客が減り、突然激減して1日2組、3組となりました。
毎日が落胆と不安との戦いです。月末になると資金繰りのことしか頭にありません。半年後の12月10日に閉店を決めました。
しかし、取引業者に対する滞納金、月々のリース代、土地の賃貸料、未払い給与、前年度の消費税、建物の取得税に固定資産税など総額2億モノ借財を抱えてしまいました。
しかも、給与も0です。その他にも個人の税金などでも容赦ない催促です。
ここで、人生2度目の挫折を味わいました
女房殿の実家からは、絶縁状を叩きつけられました。
挫折というよりも死を覚悟しました。
あれだけ稼いでいたのに
何で俺がこんな目に遭うんだ
俺は悪くないのに
口から出るのは、ため息と愚痴ばかり・・・
しかも、この時期、今後のことを10分ほど焼肉屋の駐車場に停めて相談していた矢先に車のガラスを割られて800万円入っていたカバンを盗まれました。
留めは、その一ヵ月後、自宅の駐車場に停めていた愛車を盗まれたことです。
こうなると、もう笑うしかありません。「ここまでようやってくれるよなぁ〜」
天に向って泣きながら叫びました。
「お〜、他にもう災難はないのか〜 あるんだったらもっと出せ〜 全部受けてやるぞ〜 来るならこい!」と・・・
ここで、死人になる覚悟をしたのです。
「死人になる覚悟」ということは、武士道に繋がる言葉で、「既に死んでいる」だから矢が飛んできても逃げる必要はないし、死を恐れないという覚悟を決めることです。
もう死んでいるのだから怖いものはないので、前進するしかないと覚悟したのです。
このことは、著書「破産したくない人へのラブレター」で、どのように2億モノ借入金の返済をしていったのかが書かれております。
こうして、目の前の問題を1つづつ片付けてきました。
こういう人生で学んだ知識と経験が、1つずつ蓄積されて有形無形の財産になっていったのです。
【役職】
・毛利経営コンサルタント事務所代表者
・愛知県新現役チャレンジ支援事業専門家
・経済産業省拠点事業専門家
・岐阜県中小企業再生支援協議会専門家
・三重県中小企業再生支援協議会専門家
・愛知学院大学法学部講師
・特定非営利法人ふるさと創生倶楽部代表理事
・有限会社プリンセスクラブ代表取締役
・有限会社とまりん代表取締役
・大宗建設株式会社取締役
・株式会社仁邦(とよくに)取締役
・終活カウンセラー
【所属団体】
・財団法人リスクマネージメント協会会員
・春日井商工会議所会員
・各務原商工会議所会員
・小牧法人会会員
・東海福島県人会会員
・中京北海道クラブ副会長
・かちがわ大学学長
・「北海道産業集積アドバイザー」北海道委嘱業務
昭和52年04月 | 愛知学院大学法学部入学(柔道をするため) |
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昭和56年03月 | 同大学卒業 |
昭和56年03月 | 浪川法律事務所入所 |
昭和61年09月 | 同事務所退所 |
昭和61年09月 | 青木伊藤法律事務所入所 |
平成03年 | 株式会社葵丹羽産業監査役就任(不動産業) 株式会社サカ井監査役就任(不動産貸付業) |
平成09年08月 | 有限会社シェ・モーリ設立[オーダースーツの店] (倒産したアパレルの社員の雇用を守るため) |
平成10年08月 | 株式会社プリンセスガーデンホテル代表取締役就任 (再建するためメーンバンクからの紹介) |
平成10年10月 | ホテルの外食事業部として有限会社プリンセスクラブ設立 (ホテルの売上では銀行の利息すら支払えなかったため) |
平成10年12月 | 同経営のピッツェリアマリノ栄店「名古屋市都市景観賞受賞」 |
平成11年02月 | 青木伊藤法律事務所退所 |
平成12年02月 | プリンセスガーデンホテルを再建し、経営を譲渡する。 |
平成12年08月 | 著書「トップの後ろ姿で会社は変わる」を経済界より出版する。 |
平成14年07月 | 有限会社シェ・モーリの目的に店舗設計・施工、一般建築、営繕業務も追加する 倒産した建築会社の社員の雇用を守るため) |
平成14年12月 | パスタリ庵「あんかけソース」開発し販売する。 |
平成15年09月 | 無料メルマガ「007名古屋商法」の004号の筆者として活躍する。 |
平成17年02月 | 著書「最強の名古屋商法」をアーク出版から出版する |
平成17年09月 | 著書「最強の名古屋商法(実践編)」を同じく出版する |
平成18年07月 | 小樽大丸青果株式会社の代表取締役に就任する |
平成21年07月 | 特定非営利活動法人ふるさと創生倶楽部代表理事に就任する。 |
平成24年10月 | 特殊製精礦株式会社取締役に就任 |
令和2年06月 | 大宗建設株式会社取締役就任(土木工事業全般) |
令和3年04月 | 株式会社仁邦取締役就任(福島県いわき市拠点の一般建築・土木工事全般) |